大往生、101歳で死去した昭和を代表する政治家中曽根元総理はどんな人物なのか

社会ニュース

安倍、佐藤、吉田、小泉各内閣に次ぐ戦後第5位の長期政権を担い「戦後政治の総決算」を掲げて国鉄(現JR各社)の分割・民営化を実現した元首相の中曽根康弘(なかそね・やすひろ)氏が死去したことが29日、分かった。101歳。群馬県出身。

出典:

中曽根康弘元首相が死去 101歳

「戦後政治の総決算」を掲げ、国鉄の民営化や日米安全保障体制の強化などに取り組んだ、中曽根康弘・元総理大臣が29日、東京都内の病院で亡くなりました。101歳でした。中曽根・元総理大臣は、大正7年に、群馬県高崎市で生まれ、昭和16年に旧東京帝国大学を卒業し、当時の内務省に入ったあと、太平洋戦争中は海軍の士官を務めました。そして、昭和22年の衆議院選挙で、旧群馬3区に、当時の民主党から立候補して初当選し、その後、自民党の結成に参加して、20回連続で当選しました。

出典:

この間、昭和34年に第2次岸改造内閣の科学技術庁長官として初入閣し、防衛庁長官、運輸大臣、通産大臣のほか、自民党の幹事長や総務会長などを務めました。また、改進党に所属していた当時、被爆国の日本でも、原子力発電に向けた研究開発が不可欠だとして、原子力関係の予算案の提出を主導したことでも知られました。中曽根氏は、当時の佐藤栄作総理大臣の長期政権のもと、三木武夫、田中角栄、大平正芳、福田赳夫と並んで、いわゆる「三角大福中」の一角をなし、「ポスト佐藤」の候補として、党内の実力者のひとりに数えられるようになりました。

出典:

昭和57年11月、自民党の総裁予備選挙で、河本敏夫氏、安倍晋太郎氏、中川一郎氏を抑えて、第71代の内閣総理大臣に就任し、「戦後政治の総決算」を掲げて、懸案の解決を目指しました。昭和60年8月15日には、戦後の総理大臣として初めて、靖国神社に公式参拝しましたが、中国などから強い批判を受け、それ以降は参拝を見送りました。中曽根氏は、行政改革などに尽力し、第2次臨時行政調査会、いわゆる「土光臨調」の土光敏夫氏と二人三脚で、「増税なき財政再建」に取り組み、当時の「国鉄」、「電電公社」、「専売公社」の民営化に取り組みました。

一方、外交面では、総理大臣就任からまもない昭和58年1月に、当時、関係がぎくしゃくしていた韓国を訪れて関係改善に道筋をつけて、そのままアメリカを訪問し、レーガン大統領との間で強固な信頼関係を築きました。互いを「ロン」「ヤス」と呼び合うレーガン大統領との関係は、中曽根外交の基盤となり、昭和58年11月にレーガン大統領が日本を訪れた際には、東京 日の出町のみずからの別荘「日の出山荘」でもてなし、中曽根氏がほら貝を吹く姿も話題になりました。

出典中曽根康弘元首相が死去 101歳 | NHKニュース

出典:

昭和を代表する政治家の1人で、受章した勲章から「大勲位」と呼ばれた中曽根康弘元首相が29日朝、老衰のため亡くなった。101歳だった。中曽根氏は、群馬・高崎市の出身で1947年に衆議院議員として初当選し、運輸相や防衛庁長官などを歴任した。1982年、戦後政治の総決算を掲げて首相に就任した中曽根氏は、政策面では、旧国鉄や電電公社、専売公社の民営化を実現させ、行政のスリム化を進めたが、大型間接税の売上税導入は断念に追い込まれた。

外交面では、当時のアメリカのレーガン大統領と互いに「ロン」、「ヤス」と呼び合う蜜月関係を築いたが、一方で、1985年の終戦の日に靖国神社を公式参拝し、中国などとの関係を悪化させることにもなった。2003年に議員を引退したあとも、憲法改正に向けた活動を続け、高松宮殿下記念世界文化賞の国際顧問を長く務めてきた。昭和に首相を務めた存命の政治家は中曽根氏が最後で、時代の証人がまた1人、この世を去った。

中曽根 康弘(なかそね やすひろ、1918年〈大正7年〉5月27日 – 2019年〈令和元年〉11月29日)は、日本の政治家。位階は従六位。勲等は大勲位。公益財団法人「世界平和研究所」会長、拓殖大学第12代総長・理事長、名誉総長、東アジア共同体評議会会長。新憲法制定議員同盟会長。 衆議院議員連続20回当選(1947年 – 2003年)、科学技術庁長官(第7・25代)、運輸大臣(第38代)、防衛庁長官(第25代)、通商産業大臣(第34・35代)、行政管理庁長官(第45代)、内閣総理大臣(第71・72・73代)、自由民主党総務会長、自由民主党幹事長、自由民主党総裁(第11代)などを歴任した。対米関係上の愛称は「ヤス」。

中曽根康弘

関連まとめ

タイトルとURLをコピーしました